別府中学校 武道場
稽古日 稽古時間 対象
水曜日 19:00 ~ 19:50 年少部・一般部
20:00 ~ 21:00 一般部
土曜日 19:00 ~ 19:50 年少部・一般部
20:00 ~ 21:00 一般部


2013年07月04日

隔てるもの

合気道はよく“宗教のようだ”と表現されます。
開祖の肖像画や写真を掲げ、
それらに向かって拝礼するかのような習慣があるからでしょう。
一般的な観点からすれば、そのように見えて当然かもしれません。
開祖の古事記等を引用した様々なお話が残っていることも、
少なからず影響しているのでしょう。

しかし、開祖・植芝盛平は、
変な宗教かぶれのお爺さんであったわけではありません。
彼の生涯や生前を知る方々の談話を載せた書籍がいくつかあります。
それらを読んでみて思うことは、
彼は『迷わず、ブレていない』ということです。

①故郷を離れて上京して起業、文房具卸売業「植芝商会」を設立。
②日露戦争での出征。
③政府に反しての森林保護運動。
④未開拓の地である北海道開拓。
⑤大本に傾倒して京都に移り住み、モンゴルへも渡航。

これらの間に多くの武道を習得されるわけですが、
当時の社会情勢等を考えると普通ではありません。
しかも、大胆な行動の中には、
当時の政府にすら対抗している場面もあります。
あの頃、政府に反対した運動を導先するという行為は、
とても怖いことです。命すら失いかねませんガーン

が、彼は迷いもなくこれらの行動をやってのけます。
おそらく、彼は『自分を信じきっていた』のではないでしょうか?

隔てるもの

私達はある意味で開祖を崇拝し、信じています。
しかし、自分自身を信じているでしょうか?
私を含め、多くの人が自分自身を信じられないまま、
事あるごとに不安にかられます。
そして何かあれば、人によっては“神頼み”です。

ちょっと脱線しますが、
神様の視点から考えてみると面白そうなので、想像してみました。

神様:ん? 誰か来たな。どれどれ。
人間:○○が当たりますように。○○が叶いますように。
神様:個人の利益のために都合の良い時だけ、
   小銭を放り込んで呼び出し、願いを叶えてくれか・・・。
人間:よろしくお願いします<(_ _)>
神様:神を使役しようとは、不敬である。隠れちゃおっと!

隔てるもの

開祖は次のような言葉を残されています。

『ぢぃはここまでやった、あとはみんながやることじゃ』
                     by 植芝盛平


どのような武道においても、
カリスマ的な指導者の技に憧れ、これを目標とします。
しかし、自分以外のモノへの依存という崇拝は、
実は自分の進化の障害となるのではないか?
開祖の生き方を見ていると、そんな気もして来ます。
開祖にしても、いつかはこの世を去る普通の人間でした。
私達も同じです。

はて、植芝盛平という一人の人間と、
同じくただの人間である私達の間にある決定的な違いとは、
一体何なのでしょう?
みなさんは、どう考えられますか?


Posted by 道場生 at 11:59│Comments(2)
この記事へのコメント
神は肉の宮に宿るとは故塩田剛三先生の言葉です。
開祖もまた自分自身の中に神を持っていたのでしょう。
努力を重ねるうちにその境地に至ったのではないかと思います。
Posted by わか at 2013年07月05日 20:03
今頃、コメントに気づきました!

私はおそらく、彼は自分の中に神の存在を見たのだと思っています。
何かによって得たのではなく、
最初からすでにそこにあったという事に確信したのだと。
この確信できた時の人間には、自然と常人的でないものが溢れてくる。
そんなシステムが存在する。

自らの内に神を確信するとは、言葉ではやさしいけれど難しい。
何故なら、現代社会ので生きる私達の考え、ものの捉え方など、
ことごとく修正が伴うからです。頭ではなく納得して確信する。

人間が生きる意味とは何か? 自分とは何か?
歴代の有名な思想家や宗教家達が追い求めてきた難問。
その答えにもなるような壮大でいてシンプルな境地です。
Posted by さい at 2013年07月11日 15:47
 
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