別府中学校 武道場
稽古日 稽古時間 対象
水曜日 19:00 ~ 19:50 年少部・一般部
20:00 ~ 21:00 一般部
土曜日 19:00 ~ 19:50 年少部・一般部
20:00 ~ 21:00 一般部


2012年12月27日

足りないもの

昔の合気道は、今でいう総合格闘技から寝技を除いたようなものでした。
顔を含む全身への当て身、必要ならば関節技も用いるスタイル。
他の武道で鍛錬してきた猛者たちが認める強さでした。

私達は日々の稽古の中で、何を求めているでしょう?

「技をもっと上手にかけたい」 → これは広い意味で体の使い方を学ぶことですね
「黒帯を取って袴を履きたい」 → 頑張っていればいつか必ず取れます
「合気なるものを習得したい」 → 合気という名を冠する武道を学ぶ者の大体は、
                      そんなことを思い描くことがあるでしょう

ふと、私に最近少し欠けていたもの、それは「強くなること」かも知れないと思いました。
武道を学んでいるのに今更な発言ですが、体の使い方を含め、
個々の技の研究や練磨はとても大切です。
しかし、武道を学ぶ以上、精神論的な部分は別として、やはり強いことが前提です。
つまり、武道という世界においては当たり前である「強さの追求」をせず、
「理想の追求」にやや傾いていなかったか?と思う訳です。
十分に強くなってから「理想の追求」をする。これが正しいはず。

合気道には、打撃(当身)も型の中には組み込まれてはいますが、
腰を入れない打撃方法では相手にたいしたダメージを与えることはできないでしょう。
ところが、「実戦における合気道は、当身が 七分、投げが三分。」と言われます。
やはり、合気道なりの打撃の稽古も必要ということですちっ、ちっ、ちっ

通常の稽古では、普通なら殴っているところを、こっちの技が効くまで待っていてくれます。
当然、実際の戦いではもちろんやられています。
では、どのようにすれば合気道で強くなれるのか? 
やはり当身を研究すること、せめて意識することでしょう。

また、一般論として「合気道に力は要らない」といわれますが、開祖は怪力で有名な人です。
米俵に槍をさし、頭上に持ち上げ、
背中越しに停めたトラックの荷台に放り入れることができた人ですオドロキ

もちろん筋力だけで成せる業ではありませんが、筋力があっても邪魔になるものではありません。
膝行や座り技で足腰を鍛えることは、とても大切ですね。
相手の受けを連続してとることも、投げられ→立ち上がりの繰り返しですから、
足腰の鍛錬になります。
相手の指が回らない程、太い腕になってもいいでしょう。それも利点となります。

そして、最も研究すべきは「間合い」なのでしょう。
「後の先」によるタイミングと当身!
これに体の使い方が加われば、合気道は以前の強さを取り戻すはず。

ただし、それが開祖の目指した最終的な姿かというと少し違うと思えます。
植芝盛平という人間は、よく言われるような宗教じみたお爺さんでは決してありません。
私的な見解ですが、“武道により霊的境地を得た稀な人”だと感じています。

そろそろ大人の方もお正月休みに入られる頃ですね。
私も、足らざるピースを探しながら、新しい年を過ごせればと思っています。

※お休み期間に際して
稽古をする環境が不十分であるときには、各自の工夫とモチベーションが重要となります。
合気道は一生修業ですから、級や段位を早く取得することだけが重要な訳ではなく、
取り組む姿勢が大切だと思います。
自分のペースで断念せず、進んでいければ良いですねクローバー
  


Posted by 道場生 at 16:24Comments(1)

2012年12月17日

持たれた場所を支点とする動き

武道の世界に身をおく者にとって、「合気」とは最大の関心事であり、
これを体得することが最終目標のようにすら言われます。
専門誌などでは“幻の技”などと表現されていますね。

それは武田惣角が超能力めいたような出来事を起こし、植芝盛平も神がかった一面を持ち、
惣角のお弟子さん達に至っても解釈がバラバラなるがゆえに、
なんとも曖昧で掴みどころのないモノになっています。

しかし、武田惣角が小柄で非力な弟子に対して言ったとされる、
以下のような言葉が残されています。

「柔術は教えないが合気を教えてやる」

この言葉からも、「合気」が明確に技術的なものであることが分かります。
同様のことは生前の佐川幸義氏の言葉からも伺えます。

「合気は気の力どうのと言っているようでは、いつまでたっても分らない。身体技術の一つだ。」

映像などで拝見していて思うのは、一つの共通した事柄が見いだせます。
それは“接触した面あるいは点は動かさない”ということです。
ずっと動かさない訳ではありませんが・・・。

これは「合気」を修練するうえで大切な決まりごとの1つのようです。
おそらくその行為が精妙さを求めるからこそ、その正しい動きをマスターするためには、
とても大切な行為なのだと思います。
何度も何度も、原則的な動きを繰り返して体に擦り込んでいく。

例えば、手首を掴まれた場合、掴まれたところは支点とし、
肘の動きで力点を作り作用点は相手の肩といった感じでしょうか。
相手の肩を浮かすことにより、上半身をつり上げるわけです。
実際に真似てみれば分かりますが、
動きの中で“接触した面あるいは点を動かさない”という行為は、とても難しいことです。
それ故に、「合気」という技術の習得には時間を要するのでしょう。
当たり前に出来るためには、
私たちが何も考えずに歩くことが出来るのと同じ程の熟練が必要なのかも知れません。

ただ、筋肉は一つの方向にしか縮みませんし、関節もある範囲までしか曲がらない訳ですから、
一つ一つのパーツは決まった運動しかできません。
それらを強弱も含め、
どのようにきめ細やかに組み合わせるかで様々な影響が出てくるのでしょう。

最近は「合気」という技法は、こちらから相手に一方的にかける技なのか?
といった疑問もあります。
ひょっとして、相手をかかる状態にさせるために誘導しているところがあるのではないのか?
そのための脱力とか・・・。
また、相手の力が相手に返っていってるのではないのか?  等々。

いずれにせよ、「合気」はあくまでも技法。その先を見ないといけませんね。
たとえ技法が稽古で出来るようになても、何をしてくるか分からない実戦においては、
これ用いた戦い方をしなくては使い物になりませんから。
これもまた難しいことですガーン







  


Posted by 道場生 at 13:36Comments(0)

2012年12月04日

『入り身投げ』-Ⅱ

先日の記事で、『正面打ち入り身投げ』について考察しました。
その時点での『入り身投げ』の基本は“表”ではないかと書きました。

後日、コメントをいただいて更に考えていたのですが、
やはり基本は“表”なのではないかな?と思えるのです。

基本系としては“回らない”“自分が入る”ことが原則なのだろうと。

その昔、開祖が言われたという言葉に下記のようなものがあるとか。
 「我より動いて 相手を導け」

自分から入っていく!そして導いた結果、回すことも有りうるということではないのか。
通常の稽古では、稽古ですから回っていてくれますが、本当なら回されてしまったら、
その勢いに乗じて抱き付くのではないでしょうか?
事実、回した後、最後の処理が非常に難しいですよね。
“裏”は高等技術ですよ・・・。

斉藤守弘師範の生前の言葉の中に、次のようなものがあります。
 「入り身投げも、四方投げと同じように、
  四方八方に投げることが出来ないといけない。
  それが出来ないのであれば、回すことは止めておいた方がいい。
  合気道は常に多人数が居ることを想定している。
  任意の方向へ投げられないまま相手を回していると、他の者にやられてしまう。」


つまり、回すのは自らの望む方向へ投げるために他なりません。
このように見ていくと、やはり最初は“表”で基本を学び、
その後に任意の場所に自在に投げられるように稽古するのが良いのかもしれません。

 植芝盛平
 「顎の下に内肘が入り、首を押し下げるように投げろ。
  そのとき腕は“鉄の環の如く”。」


合気道の真髄は、もっと他にあるとは感じているのですが、
「あぁでもない、こうでもない」と試行錯誤しながら仲間と過ごすその空間がまた楽しいのですニコニコ

分かるかなぁ~、分かんねぇだろうなぁ~(※懐かしッ!)  


Posted by 道場生 at 21:08Comments(0)